霞流の家へなど行って、美鶴に何を言われるのだろうか? 邪魔をしに来たのか? 自分を信じられないのか? そう罵倒されるかもしれない。そんな不安が胸の内を蹂躙する。
でも、瑠駆真は限界だった。
これ以上ただ悩んでいるだけだなんて、僕にはできない。耐えられない。こうやってもがき苦しむサマを小童谷陽翔に嗤われているのかと思うと、それこそ発狂しそうになる。
きっとこういう状況になる事を、彼は何よりも望んでいるに違いない。わかっているだけに、悔しくてとても眠りになどつけるはずもない。
それに、ひょっとしたら美鶴は霞流と甘い夜を過ごしているのかもしれないと思いながら、果たして自分は平静に過ごせるだろうか? 次に美鶴と顔を合わせた時、果たして何事もないかのように言葉を交わせるだろうか?
すでにかなりギクシャクした関係になってしまったと言うのに、これ以上、普通に会話もできないような関係にはなりたくない。したくない。
「抑えるよ。絶対に抑える」
自分を抑えるから連れて行けと懇願した聡の言葉が胸に広がる。
自分を抑える自信なんて、僕の方こそ無いに等しい。
全身が火照る。
美鶴の身体は、細くて、小さくて、でもとても暖かかった。
僕は、なんて事をしてしまったんだ。
あの日、メリエムが帰って一人になって、ようやく事の重大さ感じた。
ベッドに押し倒すだなんて、僕はどうしてそんな事を。
思い出すと目の前が暗くなり、両手が震えた。陽が落ちて真っ暗になってしまった部屋で、暖房も付けずにペタンと床に座り込んでいた。翌日、美鶴にはどのような顔を向ければいいのか、見当もつかなかった。
美鶴はもう自分とは口も利いてくれないかもしれない。
だが、それでも不思議と、後悔は無かった。
聡だって同じような事をしてたじゃないか。
思い出したくもない情景。
僕だって、負けたくない。
そうだ、負けたくないんだ。
グッと拳を握る。
僕は負けない。もう昔のようには戻らない。
霞流邸へ乗り込む。昔の自分なら到底考えられない。でも、今の自分にならできる。できなければ、美鶴と一緒にはなれない。
目の前で、黒人の美女と中東の男性が笑う。
時間がない。一刻も早く美鶴の気持ちを振り向かせたい。ましてや他の男性になど、横取りされたくない。いつでも彼女の顔を見ていたい。今、この瞬間ですら逢いたくなる。
逢いたい。そして、誰にも渡したくない。
携帯をギュッと握り締め、噛み締めるように呟いた。
「絶対に、誰にも」
脳裏に、不敵に歪んだ口元が浮かぶ。
「お前、今度こそ大迫美鶴に嫌われるよ」
嫌われたワケではない。まだ、僕の恋が終わったワケではない。
瑠駆真は手早く携帯を操作する。コール音が鳴る。留守かと思っていた頃に響く、惚けたような声。
「めっずらしいな」
愉しそうな声。
「お前の方からかけてくるなんて」
一度、小童谷から瑠駆真へ電話があった。番号など教えたつもりもないが、調べようと思えばいくらでもできる。大方、石榴石の誰かから言葉巧みに聞きだしたのだろう。
「デートならお断りだ」
「そうか、それは残念だ」
絶句する陽翔。いつもなら、冗談には付き合えないなどと声を荒げるくせに。
「何か、良い事でもあったか?」
つまらなさそうな声に、瑠駆真は嬉しくなる。
「これから、起こる」
「これから?」
「僕は明日のイブを、美鶴と過ごす」
返事の無い相手。
「別に邪魔をしようとしてくれても構わないが、君には無理だ。僕たちがどこで明日を過ごすのか、君にはわからないだろうからな」
霞流邸なんて、思いつきもしないだろう。
「なぜ、それをわざわざ俺に?」
訝しむような陽翔。
「見せびらかす為さ」
瑠駆真は歯をみせた。
「あぁ、見えるワケじゃないから、見せびらかすというワケにはいかないか」
飄々とした陽翔の口ぶりを真似るかのよう。
「楽しい聖夜を、君に見せてあげられないのが残念だよ」
「何が言いたい?」
歯軋りする音が微かに聞こえた。険しさの増した相手の声を聞き、瑠駆真は声をあげて笑いたくなった。
この声が聞きたかったのだ。小童谷陽翔の、この声が聞きたかった。
自分に絡んで恋路を邪魔しようとトラブルを引き起こす。そうして自分が美鶴に嫌われる事を何よりも望む。そんな相手のこの声が聞きたかった。
そもそも、事の発端は小童谷陽翔だ。彼が美鶴にあんな事をしなければ、こんな展開にはならなかったのだ。自業自得だ。
「言いたいこと? そんなものないさ」
潜めるように言ってから笑う。
「と、言いたいところだけど、生憎と僕は君とは違う。目的もなく行動はしない」
陽翔も、まったく目的がないというワケではないのだが。
「ならさっさと用件を済ませろ。俺は忙しい」
「あぁ、忙しいところ悪かったよ。じゃあ手短に」
悪いとも思っていないであろう口調でそう答えると、瑠駆真は一度息を大きく吸った。
「お前がどんなに頑張っても、母さんは生き返らない」
携帯の向こうで、大きく息を吸う音が聞こえる。構わず瑠駆真は続ける。
「お前がどんなに僕に絡んでも、僕が美鶴に嫌われたって、母さんは生き返らない」
「黙れ」
低く唸る。
「お前に、何がわかる」
「わからないな」
こちらの声も低くなる。
「わからない。だが、これだけはわかる」
時計の針が静かに動く。
「僕は明日、美鶴と過ごす。だがお前は母さんとは過ごせない」
そう、死者とは過ごせない。
「僕は美鶴に嫌われない。そんな事にはならない」
「嫌われる。俺がそうなるように仕向けてやる」
いくらでも。
「無理だ。僕は美鶴を諦めない」
「諦めの悪い奴」
「僕は美鶴を諦めないよ」
陽翔の言葉を無視するように、瑠駆真は繰り返す。
「諦めない。なぜなら、僕も美鶴も生きている。でも母さんは死んだ」
「言うなっ!」
短い叫び声。
「言うな。認めない」
冷静さを失ってしまった相手に、瑠駆真は瞳を細めた。
「どんなに頑張っても、母さんはお前のものにはならないんだ」
無言で歯噛みをする相手の姿が目に浮かぶ。瑠駆真はどうしようもない高揚感に苛まれた。
「僕の傍には美鶴がいる。だが、お前の傍には母さんはいない」
まるで勝利に酔い痴れるかのように瞳を閉じて、そして笑った。
「ざまぁみろ」
親指で冷たく携帯を切る。そうして、薄っすらと瞳を開けた。
ざまぁみろ。
その一言が言いたかった。
ざまぁみろ、小童谷。お前に僕の恋路の邪魔などさせるものか。お前がどんなに足掻いたところで、お前の恋など実らないんだ。なんたって、相手はもう死んでしまっているんだからな。
口煩くて顔を合わせるのも嫌だった母親。
まったく、なんだってあんな人間を好きになったんだ? 小童谷、お前は女性の好みも嫌がらせの仕方も、本当にイカれたヤツだよ。
母さんが死んだのは僕のせいじゃない。恨むなら、呪うなら自分の悪趣味を呪うんだな。
僕の恋が成就しても、お前の恋は所詮は幻。どんなに想っても、叶う事は決してないんだ。
ざまぁみろ。
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